教祖との性行為を聖書的教理として合理化・・・

出典 現代宗教 | 2021年3月17日・国民日報

■自分を「神」のような存在と洗脳して神格化

■教祖との性行為を聖書的教理として合理化

■反人権行為すら、正しい必須行為と主張

有名な宗教指導者による性犯罪が世界的ニュースとなって報じられた。イスラム原理主義を支持するアドナン・オクタル容疑者はトルコで人気のイスラム教TV伝道師だった。表舞台では「イスラム教は愛に満ちた教え」だと説き、信者には徹底した純潔を説いていた。ところが私生活では女性信者らに囲まれながら優雅な生活をし、自分と性行為することで「悟り」を得ることができると蛮行を繰り返してきた。被害者は未成年を含む多数の女性だ。11日、性的暴行の容疑で有罪判決を受けたオクタル容疑者は懲役1075年3ヶ月を言い渡され収監された。熱心な信者らは容疑者の無罪を信じて抗議しているという。

逮捕されたアドナン・オクタル容疑者(画像:国民日報)

なぜ、宗教指導者が信者に性暴力をふるう事件が後を絶たないのだろうか。似たような事件が韓国内にとどまらず世界各地で起きている。

性的暴行事件で有名なキリスト教福音宣教会の鄭明析氏(写真左)と万民中央教会の李載禄服役囚(画像:現代宗教)

性に強く執着する教祖たち 自分を「神」のような存在と洗脳して神格化

教祖による性犯罪ではキリスト教福音宣教会(通称=摂理)の鄭明析(チョン・ミョンソク)氏と万民中央教会の李載禄(イ・ジェロク=)服役囚が有名だ。摂理の鄭氏は10年間、刑務所に収監され2018年2月に出所した。万民中央教会の李は鄭氏とほぼ同じ罪状で16年の懲役刑を言い渡され現在も服役している。自称メシアであるはずの彼らはなぜ「性」にまつわる事件を起こすのだろうか?

両者とも信者には厳しい異性教育を強いている。特にキリスト教福音宣教会は合同結婚式(聖婚制度)、男女交際禁止、異性同士の距離間まで管理される。それだけでなく男女信者の自慰行為の取締も行なわれている。心に抱いた異性への罪(想像、妄想など)も反省文のようなかたちで所属教会の牧師に報告し、鄭氏というメシアの赦しを請わなければならない。誰をどのように想像したのか報告する義務があるのだ。鄭氏は性犯罪が明るみになり中国に逃亡中、潜伏先で下着姿の女性信者らと同棲していた。ナンバーツーのチョン・ジョウン牧師は若者の前で身だしなみや男女交際の禁止などを厳しく指導するが本人は性犯罪が起きた新緑樹という教祖選抜のグループに所属し、露出の多い衣装で中国の潜伏先でも何度も目撃されていた。このような矛盾を今の新世代の信者たちはどう見るのだろうか。

逮捕直前、中国当局が潜伏先のアジトに立ち入った際の映像。新緑樹といわれる教祖選抜の女性信者らと同棲していた。鄭氏の肩をもむのはナンバー2のチョン・チョウン牧師(本紙入手映像より)

鄭氏と李に共通するのは自分を「神」「メシア」のような存在だと教えている点である。教祖は自身を神格化し、信者には「世界を救う救世主」として洗脳する。鄭氏は自分を「再臨のメシア」、「総裁」、「先生」と信者に呼ばせている。事件当時、「自分との性行為が性的堕落(人間の)からの回復のための神聖な霊的行為」だと言って女性信者に行為を強要した。また「神は世の中のすべての女性の罪を赦してくださる。(自分との性行為を)断れば大変なことになる」と言って犯罪に及んだ。

万民中央教会の李は「自分は神と一体化した存在だ。アブラハムやイエスの弟子も私が呼べばここに現れる」(1998年5月復興聖会での発言)と述べ、自分を神格化した。李は女性信者に「私は聖霊だ。服を脱ぎなさい」と命じ「エデンの園では男女は全裸だった。裸でも罪がないなら恥ずかしく感じない」と惑わした。このように異端・カルト宗教の教祖らは言葉巧みに洗脳教育を行ない、人間と神の教界を区別することすらできない状態に陥れていく。キリスト教の聖書を悪用し、神の名を利用した性的搾取であり人権蹂躙なのだ。

聖書にはない独自の「性的教理」の悪用

二つ目の特徴としては、性的暴行を宗教的に正当化するために聖書を都合良く利用している点だ。鄭氏は著書「比喩論」で「神の新しい摂理時代の千年は愛人(恋人)時代、新婦時代である。メシアとして来る者は宗教的に見て新郎であり、待つ者は新婦だ」と解説している。鄭氏は女性信者に「神以外の誰も愛してはいけない。頭で考えるのではなく、下半身を開いて受け入れよ」と命じて性的暴行に及んだ。

万民中央教会の李は説教を通じ、「私は親から受けた血を92年にすべて清算し、罪のない血が新しく注がれ、原罪と日々のすべての罪がなくなった」(1998年7月5日と10月23日の金曜徹夜集会にて)と語っている。李から性的暴行を受けた被害者A氏がMBC放送のインタビューで語った内容と一致している。

A氏は教祖から「私は聖霊だ。だから服を脱ぎなさい。肉の心に罪がなく清ければアダムとエバのように全裸になっても恥ずかしさを感じない」と脅され、「私は罪がない存在だ。すべての女性と交わっても罪として神は咎めない」と言って性的暴行を受けたと述べている。

このような荒唐無稽な教えは聖書のどこを読んでも書かれていない。神に対する愛と従順さを求め、信仰に対する渇きがある多くの信者は「霊的な満たし」を求める。このような心理状態を教祖や追従する指導者らがとっさに見抜いて利用するのだ。

反人権行為すら、正しい必須行為と主張

三つ目の特徴は、性犯罪に走る教祖は「犯罪行為」すら使命だと思い込んでいる点だ。この場合、性暴力は相手を傷付ける行為ではなく、相手を救う立場として「してあげている」、当然の行為だと教祖自ら心酔しているということだ。明らかな人権蹂躙であっても自称メシアには「問題行為」などという言葉はまったく通用しない。本紙、タク・ジイル教授(編集長・釜山総神大)が書いた「教会と異端」によると、教祖らは「自身の非倫理的、反社会的行為を『不可避な宗教的選択』だと合理化しようとする。これにより猟奇的なかたちで被害が繰り返される」と紹介している。犯罪を犯罪と思わず、自分を神と教える以上、信者もその言葉を信じ追従していくのだ。

自分を神格化させ、性的な教理を利用して己の性暴力を「神」が定めた運命だと信じている教祖たち。このような行為に対する恥じらいすらなく、自己中心であり、真実性なき犯罪は単純な被害を超えて精神的崩壊をもたらしている。

いかなる理由であれ性暴力を正当化することはできない。誤った教理を説き、精神的な屈服を強要する異端教祖らの暴力を前に被害者を守り、対応できる仕組みと法整備が急がれるタイミングだ。