救援派(クオンパ)と呼ばれる3グループが特に引用する聖書の言葉は新約聖書「第一ヨハネ1章9節」だ。主に既成教会のクリスチャンに対し「罪に対する理解が間違っている」と強調し、自分たちの教えが正しくそれに立ち返るよう勧めてくる。この罪に対するメッセージは上記の箇所を最大の根拠として語られている。この記事は主にクリスチャン向けであり、改めて救援派の問題性を理解する上でぜひ牧師、リーダー的立場にある人たちに読んでいただきたいと思う。今回は、韓国で40年以上にわたり異端研究に取り組み「塩と光教会」(大韓イエス教長老会統合総会)を牧会してきた崔三卿(チェ・サムギョン)牧師が編集長を務め監修する専門紙「教会と信仰」(アメンニュース)の特集を取上げる。

崔牧師は神学校を卒業してまもなく、アメリカに留学中の妹がグッドニュース宣教会(代表・朴玉洙氏)に入信。以降、異端問題に取り組むようになったという。韓国を代表する異端研究の先駆者である。(異端・カルト110番編集部)

 

教会と信仰 2021年6月8日

第一ヨハネ1章9節を引用して救援派は「罪」に対する彼らの教理を説明している。「救援派」は3つの教団を既成教会側が取上げる際に使う「呼び名」であって、「グッドニュース宣教会」(朴玉洙氏=パク・オクス)、「大韓イエス教浸礼会」(日本では「日本イエス教バプテスト会」で活動 李ヨハン氏)、「基督教福音浸礼会」(日本では「THE WORD FORUM」の名称 故・兪 炳彦氏=ユ・ビョンオン)を指す。3つの教団は異なる運営とされるが、ベースとなる神学は共通しており、韓国の主要教団は異端、カルト集団と規定している。

救援派「グッドニュース宣教会」朴玉洙氏の著書(画像:教会と信仰)

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一 1章9節)

この一節からグッドニュース宣教会・朴玉洙(パク・オクス)氏は独自の「罪」に関する教えを説いている。どのようなものか分析してみよう。朴氏の代表的著書『罪の赦し 生まれ変わる秘密1.2.3』(喜びニュース社1991年発行)からグッドニュース宣教会の「基礎」と言える神学を読み取ることができる。2017年に改訂版『私はこのように罪から脱した』(喜びニュース社)が出版された。3巻に分れた本を1冊にまとめたかたちだが内容は同じだ。以下はヨハネの手紙第一1章9節を根拠とした朴氏の主張である。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(ヨハネの手紙 第一 1章9節)。当初、この言葉の意味がよく理解できず、私が犯した罪を一つひとつ言い表すなら罪が晴れるという意味であると理解した。しかし、本当の意味はそうではないことがわかった。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら」と書かれている。皆さん、「罪」とは何だろうか?盗みをして嘘をつくこと。人殺しや姦淫することは罪だろうか?とんでもない。それは罪ではない。

皆さん、ハンセン病とはどんな病気だろうか。指がもげて眉毛が抜けて鼻が歪むのがハンセン病だろうか?答えは「いいえ」だ。そうではない。それはハンセン病の症状であって、病気を患った結果に過ぎない。病気そのものではないということだ。皆さん、腸チフスとは何だろうか?高熱が出て髪の毛が抜けることを腸チフスと言うのか。それは違う。腸チフス菌が体内に入って起きる現象であって、現象とチフスは異なるものだ。これと同じように聖書が教える「罪」と「犯罪」は根本的に違うものであることがわかる」(朴玉洙・罪の赦し 生まれ変わる秘密1 2002年33頁)

グッドニュース宣教会が配布するチラシにはらい病と記載されていることがある。らいという表現は差別語、不適切であることから本紙はハンセン病と言い換える。

朴氏は罪と犯罪は根本的に異なるものだと述べている。これはグッドニュース宣教会や関連団体の教理的価値観といって過言ではない。信者もこの教理を信仰している。そして指導者である朴氏は「盗み、嘘、姦淫、人殺しは罪ではない」、「とんでもない」と断言した。それは罪ではなく、犯罪であり、異なるものだと主張しているのだ。

朴氏は次のように述べている。

「聖書は罪と犯罪を明白に分けて教えている。『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら』という聖書の言葉通りに『私は盗みを犯してしまいました』と告白するが聖書は犯罪を告白(認める)しなさいと言わず、原罪を認めなさいと教えている」(朴玉洙)

「この聖書の言葉は私たちが犯した犯罪に対する告白ではない。私たちは根本的に罪人(原罪)であるため『主よ、たすけてください』と主に任せることを教えている。そうすれば、そのすべての問題を神が解決してくださるからだ。多くの人がこの御言葉を正しく理解していないため誤解し、いつまでも悔い改めばかりしている。」(朴玉洙 38頁)

このようにグッドニュース宣教会の教えは既成教会のクリスチャンを批判し、転身させることが狙いであることがわかる。キリスト教信仰を持たない人たちに向けた言葉ではない。

朴氏は罪を2つに分類して教えを説き、神の前で悔い改めるべきものは犯罪ではなく、その犯罪は罪ではないとはっきり語っている。根本的な原罪こそが罪だと強調している。この神学は正しいのだろうか。そのような聖書解釈で理解されてよいのだろうか。

朴氏の神学が正しいか分析してみよう。私たちは数多くの神学書や解説書を入手し自由に学ぶことができる。聖書を正しく解釈するためには原語を学ぶ必要がある。これは重要なことだ。原語から学ぶという姿勢は正しい聖書理解を持ち続けるひとつの能力にもなる。まず、動的等価の翻訳聖書であるNIVと意訳聖書であるNLTから確認してみよう。朴氏が主張する「罪」について単語の形態に焦点を当ててみる。

“If we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us our sins and purify us from all unrighteousness.”(ヨハネの第一の手紙1:9, NIV)

“But if we confess our sins to him, he is faithful and just to forgive us our sins and cleanse us from all wickedness.”(ヨハネの第一の手紙1:9, NLT)

上記の聖書(NIV、NLT)は「罪」にあたる単語として「sins」を使用している。これは複数形であることがわかる。つまり「罪ら」「罪たち」と訳せるのだ。この罪は、盗み、嘘、姦淫や人殺しまで含む「複数」を示している。私たちが日々生きる中で犯す様々な罪もこれに含まれる。朴氏はこの「罪たち」を原罪のみと扱っている。どのような解釈からsinsを原罪のみと理解したのだろうか。聖書の教えと正反対を説いていることは明白だ。

では、直訳聖書の表現も確認してみよう。聖書は「訳」を正しく理解することが大切だ。KJVとNASBを調べた。

“If we confess our sins, he is faithful and just forgive us [our] sins, and to cleanse us from all unrighteousness.”(ヨハネの第一の手紙1:9, KJV)

“If we confess our sins, he who is faithful and just will forgive us our sins and cleanse us from all unrighteousness.”(ヨハネの第一の手紙1:9, NASB)

ここでも同じく「sins」と訳されている。つまり「罪」を複数形で訳していることがわかる。原罪のみを「罪」とする根拠はどこにもない。

一般的に翻訳聖書から確認できれば、正しく理解することが可能だ。しかし、ギリシャ語聖書から学識的に分析するべきだというこだわりを持つ人も少なくない。そのような意見も聞き入れた上でギリシャ語の原文からこの罪を確認してみた。

“ἐὰν ὁμολογῶμεν τς μαρτας ἡμῶν, πιστός ἐστιν καὶ δίκαιος ἵνα ἀφῇ ἡμῖν τς μαρτας, καὶ καθαρίσῃ ἡμᾶς ἀπὸ πάσης ἀδικίας”(ヨハネの手紙第一 1:9)

ここで「罪」に該当するギリシャ語の単語は「ハマルティア」である。ギリシャ語の名詞は男性形、女性形、中性形に分けられる。このハルマティアは女性名詞だ。ギリシャ語聖書に書かれた「タス・ハマルティアス」は女性複数形。このことから聖書が示すヨハネの手紙第一1章9節の罪は複数形であることが証明された。聖書はなぜ罪を複数形で示すのだろか。それはどんな罪でも心から神の前に悔い改めれば赦してくださると語っているのだ。原罪であろうと、私たちが今生きているこの瞬間に犯す罪であろうと、神に対し罪を認めることは聖書の大切な教えだ。

聖書を一部の文脈で理解し、解釈することは危険である。単にヨハネの手紙第一1章9節は前後の文脈をみれば、聖書が伝えたいメッセージを容易に理解できる。このことからグッドニュース宣教会(救援派)の朴玉洙氏は誤った神学を言い広めていることが証明された。

マタイによる福音書 6章

マタイの福音書6章はイエス・キリストが私たちに「こう祈りなさい」と教えた「主の祈り」について書かれている。この祈りは代表的なものでクリスチャンであれば誰もが知っているはずだ。ここからも救援派の神学の矛盾点を指摘することができる。

6:9だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。6:10御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。6:11私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。6:12私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。6:13私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

正統派教会の信徒たちはイエス・キリストが教えられた主の祈りを覚え、礼拝でも唱えている。「私たちの負いめ(韓国語聖書では“私たちの罪”)をお赦し下さい」(6章12節)とは、この瞬間も自分の生き方を振り返りその罪を神の前で悔い改めなさいという意味である。これはクリスチャンの信仰生活の一部だ。しかし、救援派はこの「繰り返す悔い改めの行為」を極端に嫌う。指導者が他との差別化を図った独自教理と合わないことをよくわかっているからだろう。

彼らは次のように主張している。主の祈りにある「私の罪を赦してください」とは現在進行形ではないというのだ。だから繰り返し、罪の赦しを神に求める必要はないと考えている。言い換えれば、過去に1度罪(原罪)を悔い改めたら今はもう必要ないということだ。聖書はそんなことを教えているだろか。

神学的な検証を続ける。誰でもこの程度の神学なら容易に確認することができる。「私たちの負いめ(罪)をお赦し下さい」は「何形」だろうか。朴玉洙氏は「過去形」だと主張している。マタイ6章12節を直訳聖書、翻訳聖書、意訳聖書から確認してみた。

“And forgive us our debts, as we forgive our debtors.”(マタイ6:12, KJV)

“And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.”(マタイ6:12, NASB)

“And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.”(マタイ6:12, NIV)

“And forgive us our sins, as we have forgiven those who sin against us.”(マタイ6:12, NLT)

上記はすべて現在形「forgive」と表示されている。NASB、NET、RSVなど他の英語聖書もすべて同じだった。動詞が現在形で書かれるとはどんな意味を持つのか?過去形ではない。つまり「毎回繰り返すように」という意味だ。「我々の罪を赦してください」という主の祈りの内容は、クリスチャンである私たちが繰り返しすべき悔い改めの祈りだということになる。救援派に弁解の余地はない。彼らの矛盾をここで明らかにした。最後にギリシャ語でも確認してみた。

“καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς φεμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν”(マタイ6:12)

「アピアメン」の動詞がこれに該当する。「赦して下さい」という意味だ。過去形ではなく現在形になる。「これからも」という意味合いを持つ。はっきり言えば、救援派の指導者は神学をきちんと学んでいないことを自ら暴露したことと同然である。

気の毒に信徒たちも教わるまま、検証すらせず信じている。世の中には多くの神学書があり、標準的な教理と解釈をいつでも読み学ぶことができる。救援派は、罪に対する教えだけでも大きな間違いを伝えていることがわかる。非常に残念だ。