指導者を絶対視させる「邪悪な操作」のメカニズム マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー

 はじめに

今年、私はウィリアム・ウッド先生と一緒に『「信仰」という名の虐待からの解放』という本を書きました。2月15日に、いのちのことば社から出版されました。ウッド先生と私は違う教団なのですが、この問題に対して、同じ考え方を持っています。それは「信仰」という名の虐待は、「問題」というよりも「罪」であるということです。そして、その「罪」の前には沈黙と無関心のままでいることはできません。もしそうすれば、『虐待する人』の行為よりももっと大きな「罪」になります。コロナウイルスの影響がある中でも、私とウッド先生の所に、この本を読んだクリスチャンからの相談が寄せられました。この「信仰」という名の虐待の研究を始めてから、すでに20年が経ちます。その間にもたくさんの相談を受けました。いちばん驚いたことは、多くの相談者たちは、毎回、最初に同じことを言います。

「私の牧師にパスカルさんに相談していると言わないで!!!」

驚くというよりも、恐ろしいと思っています。なぜ、私やウッド先生に相談することを秘密にしなければならないのでしょうか。なぜ相談者たちはそうする時に「罪」を犯していると強く思い込んでいるのでしょうか。一つの理由はその牧師との関係からくるものです。

 権力欲

多くの相談者の説明を聞く時に、共通している点が一つあります。それは、彼らにとって牧師が特別な存在になっているという点です。「私の教会では牧師が言うことに『No』と言うことは考えられない!」。被害者たちからは、このような発言が多いのです。彼らは牧師を一人の人間として見ていません。なぜでしょうか。メンバーたちが牧師を神の代理人であると信じ込むようになるための教育を受けているからです。そうなるためには牧師の独自的な聖書の解釈が大きな役割を果たしています。聖書の学びには、「牧師の権威」についての話が多いのです。「牧師の権威に逆らうのは罪である」という教えに、メンバーたちは恐怖心を植え付けられます。そして、信者たちは依存的で、従順な人間に仕立てあげられていきます。こうした心理状態のままでは、仮に牧師が間違いを犯したとしても、服従は続きます。「牧師に従えば、神さまは祝福を与えてくださる」と信じ込んでいるからです。

しかしなぜ、ある牧師はメンバーたちを操作しながら、自分の利益のために服従させるのでしょうか。牧師になったから? そうではありません。それ以前の問題です。実はこの人が牧師になる前に、心の中にはある「病」がありました。「権力欲」です。人の上に立ちたい、支配したい、自分の利益のために利用したいという欲望です。そして、この人は牧師になったからこそ、その恐ろしい欲望を叶えることができます。牧師になったというよりも、神のようになったからこそ、それを叶えることができるのです。このようなタイプの人は、決して牧師になるべきではありません。

邪悪な操作

Bさんの教会では牧師がメンバーたちの献金をどのように使っていたのか、一切報告がありませんでした。Bさんはこのことについて疑問を感じていました。このような疑問を感じることは全く問題がないと思います。メンバーたちは自分たちの献金がどのように使われているのかを知る権利があります。Bさんは質問をしました。その質問をしてから教会を離れるまでの間、Bさんはとても辛い経験をしました。牧師は怒りました。その質問の後、Bさんは牧師にいろいろなことを言われました。たとえば、「神さまを悲しませている!」「牧師を疑うのは不信仰だ!」「牧師を疑うのは罪だ!」「献金は神のお金だ!」「神さまを理解していないからこのような質問をするのだ!」。牧師は礼拝の時に「牧師の行動に対して疑問を持つのは不信仰だ!」と繰り返して説教をしました。説教の時に、牧師はBさんの名前を直接出しませんでしたが、他のメンバーたちは誰のことか、分かっていました。もちろん、Bさん自身も分かっていました。

牧師の発言とその使われ方には「邪悪な操作」があります。牧師の発した言葉は侮辱的なものなので、まず、Bさんの心に傷を与えます。そして次に、Bさんを辱めるためにこのような発言をします。それによって、Bさんは強い恥を感じ、自分が悪い、神を汚したと思い込みます。牧師のもう一つの目的は教会のみなさんから、Bさんを引き離させるためにあります。最終的には、教会のメンバーたちはBさんが悪いと思い込むので、Bさんとは交わらなくなり、本人を避けるようになります。

全世界のキリスト教において、このような「邪悪な操作」によって「信仰という名の虐待」を受ける人たちが多いのです。彼らの精神的、霊的な傷は深いのです。

相談はどこから来ている?

相談はどのようなところから来ているのでしょうか。単立教会、共同体、家庭集会、その他いろいろな教団のメンバーたちから来ています。単立教会、共同体、家庭集会のリーダーになる人は、日本人か宣教師です。しかし、よく調べてみると、ここには多くの謎があります。

① :どこの神学校を卒業したのか。

② : 誰から按手されたのか。

③ : 彼らの宣教団は。

これらについての情報がありません。

単立教会の場合、つぎのようなケースがありしました。ここの牧師は、ある単立教会から離れてきました。そこでは副牧師でした。そこの教会の牧師が「信仰という名の虐待」を行なったために教会が分裂しました。この副牧師は数人のメンバーたちとそこの教会を離れ、新しい教会を立てました。しかし、この副牧師自身も「信仰という名の虐待」をその新しい教会で行いました。このようなケースは、ある共同体や家庭集会にもありました。

 

「信仰」という名の虐待が教団内部に起きているその教団と連絡をとってみると、三つの反応がみられます。

1:すぐに問題を受け止めて、行動を起こします。

2:すでにこの問題に気づいていますが、それに対して「非常に心を痛めている」、あるいは「非常に悩んでいる」と言ったまま、何も行動を起こしません。

3:話しかけてもそれに対して返事をしません。

牧師の中には、自分の神学校を開く牧師がいます。そして、自分で卒業生に按手をします。私は、それに対して批判をしません。しかし、その按手した卒業生が牧師になった時、「信仰という名の虐待」を行うのであれば、それに対して責任を取る必要があると思います。

おわりに

今回、この本をとおして、ウッド先生といろいろな角度から、この大きな問題に取り組んでいます。目的は、

1:この問題は無視するべきではありません。「信仰という名の虐待」は罪なのです。

もう一度、この「信仰という名の虐待」という問題を伝えるためです。

2:この問題について聖書は何を教えているのかを伝えるためです。

3:クリスチャンとして、この問題に対してどうあるべきなのか考えるためです。

4:被害者たちの苦しみが何かについて伝えるためです。

5:被害者たちのために何ができるのか考えるためです。

6:彼らは訴える権利があります。被害者たちが立ち上がるための手助けをするためです。

「信仰という名の虐待」は、本当に「罪」なのです。そして、日本と全世界のキリスト教において、この「罪」が大きな危機であるということを真剣に受け止める必要があると思います。

 

パスカル・ズィヴィー  1957年にフランスで生まれる。13才から柔道を始め、80年に来日。講道館の門を叩き筑波大学柔道部で練習に励む。筑波でバートン・ルイス宣教師、稲垣守臣牧師に出会いクリスチャンになる。その後、札幌のアジア聖書学校で数ヶ月聖書を学び、当時通っていた日本基督教団札幌十二使徒教会で初めて破壊的カルトの問題に直面し、救出カウンセリングに携わるようになる。94年、札幌にマインド・コントロール研究所を設立。94年頃から、テレビや雑誌、新聞などのマスメディアでもカルトやマインド・コントロールについて多数出演。2003年から2005年までカナダのモントレアルにあるキリスト教カウンセリング教育機関Sauf Conduit(通信制)でカウンセリングを学ぶ。2005年4月1日に卒業。3年間、北海道聖書学院の短期信徒コースを受講。2015年3月14日に卒業。2015年から2018年まで、フランスのパリにあるキリスト教カウンセリング 教育機関Empreinte.Formation(通信制)でカウンセリングを学ぶ。2018年6月30日に卒業。現在に至る。

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