《聖書解釈の原則3》「自分で考えずに従いなさい」は聖書的か?

異端・カルト団体に入ってしまうと、組織に指示されるままに非常識で反社会的な言動をするようになることがあります。家族や友人がそれに気付いて「危険だ」と忠告しても耳を貸そうとしません。それは「この教会(団体)の教えに反対する人たちはサタンだから、言うことを聞いてはいけない」と平素から教え込まれているからです。教祖や組織の教えを疑わないように、巧妙に心を操作されているのです。

そのようなマインドコントロールの典型が、「自分の頭で考えてはいけない」という教えです。「自分で考えると不信仰に陥る。だから、教えられたことを疑わずに従順しなさい(素直に従いなさい)。それが信仰です」と。これは本当に、聖書が私たちに教えている「信仰」なのでしょうか?

聖書はたしかに、心を頑なにしないで神に従うことを求めています。では、その教えや指示が本当に神から来たものかどうかを、どうやって見分けられるのでしょうか。冷静になって客観的に考えれば、どんなに素晴らしいと思える宗教団体であれ、偉大な「先生」であれ、人間(の組織)ですから間違う可能性があることは当然です。権威ある人(組織)の指示といわれても、その真偽を見極める責任は一人ひとりに課せられているのです。少なくとも、それがプロテスタント・キリスト教の判断です。人や組織ではなく、「神のことば」である聖書が最終的な権威だからです。

カトリックでは教会に権威があり、そのトップである教皇に使徒権が継承されていると考えます。かつては教会の決定や教皇の詔勅は無謬(間違いがない)とまでいわれました。しかし実際には、中世のカトリック教会が免罪符を発布するなど過ちを犯しました。それに対して「聖書のみ」を掲げて教会の改革を求めたのが16世紀のプロテスタント宗教改革です。教会であれ聖職者であれ、神のことばである聖書の権威の下に服すべきであり、聖書に最終的な権威があるという考え方です。現在ではカトリック教会でも、過去の教皇の詔勅に誤りがあったことを認めています。異端の問題を判断する際にも、聖書によって真偽を吟味するという態度はたいへん重要です。

まず、このことを知るべきです。一人ひとりが「先生」の教え、組織の指示を、それが神の御心なのかどうか自分で考えて精査しなければならないということ。このことは何ら「不信仰」ではありません。それどころか、そのような真摯な態度を聖書自身が奨励しているのです。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒の働き17章11節)。この人々はパウロやシラスの言うことを唯々諾々と受け入れたのではなく、二人を派遣した教会が権威だと思って彼らの話を鵜呑みにしたのでもなく、自分たちの知見を動員して「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のです。そのような態度が「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ」と高く評価されています。

自分の頭で考えることを「不信仰」という発想は、聖書のものではありません。それどころか聖書は、魅力的に見える教えであってもそれが神のことばと合致するかをきちんと見極めるべきことを示しています。創世記3章でへび(サタン)がアダムとエバを誘惑したとき、へびは巧みに神のことばを使い、それを少し歪めて嘘を吹き込みました。いかにも神の教えのように思われたとしても、無批判に従うならサタンの策略に騙される恐れがあるのです。

イエスは常に、聖書はなんと言っているかを基準にしました。イエスの弟子たちも、宗教権威者の言いなりに従いはしませんでした。ペテロと使徒たちは、ユダヤ人たちが聖域とみなしていた神殿の最高権威者である大祭司に尋問されたとき、「人に従うより、神に従うべきです」と、きっぱり大祭司の権威を相対化しました。特定の「牧師様」「先生」を権威とみなし、その発言や指示を絶対視する団体は「カルト」であると判断するべきです。