議論が分かれるグループをどう考えるか

異端・カルト110番には、よく「この団体は異端ですか?」との問い合わせが来ます。できるだけ調査してわかる範囲でお答えしていますが、中には「あそこは異端だ」「いや異端じゃない」と議論が分かれるグループがあります。キリスト教で「異端」というのは、唯一の神が天地を創造され、イエス・キリストが人となった神の御子であり、その十字架の贖いと復活によって罪が赦されたという聖書の神論・救済論の根幹が歪められたり、他の教えと巧妙に入れ替えられたりしている場合です。そのことは、これまでこのシリーズで「異端」を見分ける際に様々な角度から指摘しました。ところが中には、その点では普通の教会の教えとあまり違いは見られないものの、様々な面で他の教会と軋轢を生んだり、そこに関わるようになった人が極端なことを言い出すようになったりして問題視されるケースがあります。そうしたグループをどう考え、どのように見分けたらよいのでしょうか?

この問いを解く一つのカギは「独善性・排他性」です。自分たちだけが真の正しい教会であると主張することは、他の教会はみな間違っていると主張していることに等しいので、お互いに違いはあっても受け入れ合い、協力し合ってキリストをかしらとして立て上げられていくという、聖書的な「キリストのからだ」に連なる教会の公同性を否定することになります。たとえ神論・救済論が普通の教会と大差ないように見えても、それでは健全とは言えません。

伝統的に「異端」として知られているエホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)は、その主張や団体の体質が独善的・排他的である点でその典型的な実例です。彼らは一般的なキリスト教の聖書解釈を否定して独自の解釈をし、それだけが正しい、唯一の真の教えだと強く主張します。その結果、自分たちとは異なる解釈をするキリスト教会を「大いなるバビロン」と呼んで敵視するので、もはやキリスト教の一員とみなすことはできません。つまり「自分たちだけが正しい」と主張することによって、教理の強調点は違っても共通点で一致できるというキリストの教会の「公同性」を拒否しているので、共に働いたり交わりを持ったりすることができない、というパラドックスに陥っているのです。

「独善性・排他性」の典型的なわかりやすい例としてエホバの証人を挙げましたが、キリストの神性を否定するエホバの証人がもはやキリスト教とは言えない異端であるのに対して、異端とまでは言えないが著しく独善的・排他的というグループがいくつかあります。教団・教派というものはそれぞれ設立の経緯に何らかの信仰的な確信や動機があり、場合によってはその時代の主流の教理に対するアンチテーゼとして始まった運動に端を発するような場合もありますので、多かれ少なかれ自分たちが正しいと考えていることは否めません。しかし、自分たちとは別の解釈をする教派であっても、同じイエスを主と信じる兄弟姉妹として受け入れ合うことができれば、教理や神学の論争をしたとしても主にある同労者として交わりを持ち、活動によっては一緒に協力することもできます。問題は、教会(グループ)がそうしたキリストのからだの一部としてのアイデンティティーを否定し、自分たちだけが神に認められた群れであるかのような独善に陥ってしまうことです。いくつか事例を挙げてみましょう。

グループAは、創始者を「現代の預言者」と位置付けており、その創始者が書き残したり発言が記録されたりした教えが、長年にわたり絶対的な権威を持ち続けてきました。その教えの中に、その教派の特徴的な教理である「●●を守るかどうかが真の教会を見分ける試金石である」というくだりがあるために、論理的には、その教理を守らない他の教派の教会は「真の教会ではない」と言っているに等しいことになってしまいます。実際には、そのグループの現在のリーダーたちは、その創始者の言葉を絶対視しなくなっていますし、他の教派とも協力を望んでいますが、「現代の預言者」と称する人物の発言は重い意味を帯びるので、他の教派から受け入れられにくくさせています。

グループBは、新約聖書(おもに使徒の働き)には1つの都市に1つの教会だけしか書かれていないから、現代の教会もそうでなければならないと主張します。すると必然的に、自分たちの教会以外にその都市(地方)に存在する他の教会は正当性がないことになりますから、排他的に否定する以外に選択肢がなくなります。そうなると、主にある兄弟姉妹として協力したり交わりを持ったり祈り合ったりすることは不可能になります。

グループCは、シオニズムに強く傾倒し、熱心にヘブル語を学習したり、イスラエルのキブツで共同生活をしたりします。また、新国家主義に強く傾倒して「日本会議」や「新しい教科書をつくる会」に深く関わり、神話上の神武天皇や靖国神社を推奨して国家のために命を捧げることを礼賛したりします。もちろんヘブル語学習もイスラエルを支持することも、だから不健全ということではありませんが、信仰の軸足がイエス・キリストを主とすること以外の何かに偏ると、主にある交わりや協力の障害になってしまいます。特異な政治的立場や歴史観を前面に打ち出すと、そうではない考え方のクリスチャンを排除することになりやすいからです。

さて、以上に挙げたこれらのグループは、それぞれかなり特異な教えや特色を持っているので「独善性・排他性」の例として納得しやすいのではないかと思います。しかし、自分が属している教会・教団・教派が独善性や排他性に陥ってはいないかということには、なかなか気づきにくいものです。教会・教派の伝統や主義に愛着や誇りを持つこと自体は悪いことではありませんが、その熱意があまって他のクリスチャンを拒絶したり、バカにしたり、下に見たりしていることはないでしょうか?

主イエスは弟子たちの中に多様性があることを認め受け入れつつ、弟子たち(私たちクリスチャン)もまた互いに相手を受け入れ愛し合うように求めました。それは、イエス・キリストと私たちとの関係、父なる神とイエスとの関係に基礎づけられているからです。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネの福音書13章34-35節)

「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(同17章21-22節)

またパウロは、そのスピリットを具体的な教会のあり方に適用して、次のように信仰者の独善的・排他的なあり方を戒めました。

「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。実際、からだは一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。……目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。」(コリント人への手紙第一 12章12-21節)

これらの聖書の原則を「多様性の中の一致」という言葉で表現します。多様性を否定して自分たちだけが唯一正しいと主張するようなあり方は、聖書的な「多様性の中の一致」を損なうものです。福音の真理を破壊するような異端は退けなければなりませんが、そうでない限り、いたずらに自分の信仰や自分たちの教会(教団・教派)を絶対視し、それと異なる信仰のあり方や特色を否定したり排除したりすることは、イエス・キリストの御心に反することを覚えたいと思います。