《聖書解釈の原則5》なぜ、異端は嘘をつくのか?
異端はその教え自体が偽りですが、人々を勧誘する際に正体を偽ったり、金銭を搾取したり無理な献金を強要したりする際にも平然と嘘をつきます。メンバーらは元から悪意がある詐欺師と違い、自分は世界救済の使命に献身していると思い込んでいる善意の人たちです。どうして良心の呵責なしに嘘偽りが言えるのでしょうか?
元統一教会員の証言によると、霊感商法などで人を騙すことに最初は心が痛んだそうです。それが繰り返し「使命のために嘘をつくのも神様のため」と聞かされてその行為を繰り返すうちに、だんだん慣れてきて良心が麻痺していったといいます。善良な青年たちの心を麻痺させ、蝕んでいく道具となる教義的な構造はどこにあるのか? それは、徹底した善悪二元論です。統一教会の教理「原理講論」に例をとって説明しましょう。韓国系の多くの異端が、原理講論やその系統の教理の影響を受けています。
原理講論ではすべてを神の側かサタンの側かに二分して考え、両者が天地創造の始めから現在に至るまで対決し闘争しているかのような図式で説明します。そう聞いても聖書とあまり変わらないように思えるかもしれませんが、大きな違いがあります。これは善と悪が際限なくバトルを続けるという世界観であり、ギリシャ神話など異教の思想に見られるパターンです。原理講論ではそれに加え、同じく二元論的な陰陽道などの東洋思想も混交した教えになっています。しかし聖書は、他の何ものとも比べられない唯一の創造主が天も地も支配しているという統合的な世界観で貫かれています。たしかに聖書にも神に挑戦する「サタン」とか「悪魔」といった霊的な存在が、実在するものとして描かれていますが、それは決して神と拮抗して争えるような存在ではありません。ただ、すべての主権をお持ちの方、創造主なる神の許容する範囲内で活動しているにすぎないのです。その実像以上に悪魔やサタンを力あるもののように思わせるのも、異端の巧妙な偽装工作といえます。
原理講論では、悪魔の側を「カイン」、神の側を「アベル」と、兄が弟を殺した聖書に登場する兄弟の名で区別し、いろいろな事象をカインVSアベルの図式で説明します。例えば、自分を統一教会の信仰に導いた先輩はアベル、導かれた側はカインなので、アベルの言うことに従わなければなりません。国どうしの関係でも、戦時中に朝鮮半島を支配する罪を犯した日本はカインであり、それに対して韓国は正しいアベルの立場なので、日本人を霊感商法で騙すことも正当化されます。同様に、統一教会はアベル、この世はカインなので、世の人々を騙してでも、カイン(悪魔)の側に主管されていた財をアベル(神)の側に復帰するのだから悪くはない。騙された人のためにも良いことをしているのだ……こうして善良だった青年たちが良心を麻痺させられ、良識的な判断ができないカルト脳に仕立て上げられていきます。
はたして神のため、使命のためなら嘘は許されるのでしょうか? 嘘偽りを「〜のため」という言い訳は、“献身”の思いを持った青年たちの使命感を掻き立てます。しかし実態は、やましい行為をしている者が自己正当化するための詭弁にすぎません。自己正当化は罪の特質です。聖書の真理には、そのような詭弁を容認する余地はありません。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼らのうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼らは偽り者、また偽りの父だからです」(ヨハネの福音書8章44節)。辛辣な言い方ですが、偽りはそれほど神がお嫌いになるものなのです。
「異端」と聞いて、古代教会の教義論争のようなイメージで思い浮かべる人は、上記のような平気で嘘をつく“クリスチャン”というのは想像がつかないかもしれません。そういう誤認をしている人は、「些細な教義の違いで相手を異端視しないで、主にある兄弟と仲良くするべきだ」などと言ったりします。しかしこれは、現在批判されている「異端問題」の本質とは別次元の問題です。この異端カルト110番でもそうですが、問題にしているのはキリスト教内部の教義や解釈の違いで正統か異端かということではなく、もはや「キリスト教」とは言えないほど逸脱していながら、自らをあたかもキリスト教の一員であるかのように見せかけようとする詐欺的な宗教団体の偽装なのです。
そういう異端・カルト団体のメンバーたちは、よく「主にある兄弟であるのにクリスチャンから不当な迫害を受けている」「信教の自由を侵害されている」という言い方で反撃し、自分たちの立場を自己弁護することがあります。しかし、自らを「キリスト教の一員」と見せかけようとするそこに、すでに詐欺的偽装があることを見抜く必要があります。表面的には巧妙に「キリスト教」「クリスチャン」に見せかけていても、注意深く話してみると虚偽やごまかしが随所にあることがわかってきます。
そういう人たちは、嘘がばれるとそれをごまかすためさらに嘘を重ねていき、不自然な説明や矛盾がさらけ出されてきます。ところが、相手がクリスチャンだと思い込んでいると、そのような矛盾だらけの怪しげな説明でも善意に解釈して、なんとか受け入れようとする牧師・クリスチャンは少なくありません。しかし、そのような集団は神の霊によらず、別の霊(聖書は「悪魔から出た者」とはっきり指摘する)によって動かされているのです。話し合いで折り合いをつけて仲良くやっていけばいい、というレベルの問題ではありません。
ところがそのように騙されてしまうと、今度はクリスチャンどうしでその団体や教会を受け入れるべきか否かで紛争が起きることになります。虚偽に基づくマインドコントロールは、異端にとらわれたメンバーだけでなく、実に周囲のクリスチャンをも巻き込んで混乱を引き起こすのです。偽りの霊を軽く見ると「キリストのからだ」である教会の破壊につながり、大きな禍根を残すことになりかねません。