《聖書解釈の原則4》キリストの贖罪(しょくざい)の完全性
韓国基督教異端相談所協会会長で異端カルト110番の特別顧問である陳用植氏によると、韓国には自称「再臨のメシア」が40人もいるといいます。それぞれの教団によって、それを公に自称する場合も、自分ではメシアであることを否定しながら密かにそう信じさせるように誘導する場合もありますが、彼らはなぜ、自分が再臨のメシア=キリストだと主張できるのか? そこにはイエス・キリストが十字架にかかって成し遂げた罪の贖いを不完全だと見る、非聖書的な考えが根底にあります。
聖書は明確に、十字架の贖罪は完全であることを告げています。「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、
ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(ヘブル人への手紙9章11〜12節)。ここに、「永遠の贖い」はイエス・キリストご自身が十字架の血によって成し遂げられたと、はっきり宣言されています。
ところが自称メシアの教団は、このキリストの十字架の贖いを失敗だったとみなします。メシアは神の国(統一教会では「地上天国」)を完成させる使命を帯びて来られたのに、その志半ばで十字架につけられ殺されてしまった。だから、十字架の贖罪は失敗であり、不完全だったという理屈です。その背景には、世界にも自分の中にも罪は残っているではないかといった、私たちの経験則に照らしてそう思わせる心理的な騙しのテクニックがあります。たしかにメシア=キリストが処刑されるということ自体が、人間の常識で考えれば「失敗」「挫折」のようにも見えるでしょう。しかし、神のことば=聖書の真理は人間の常識を超えたところにあることを、再臨のメシア型の異端は無視しています。
イエスが、自分は苦しみを受けて殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示したとき、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といさめました。ペテロはこの直前、イエスに「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した人です。それほどの信仰があっても、彼の常識では、キリストが殺されるなどということは起こるはずがない、と受け入れられませんでした。これに対してイエスは、「下がれ、サタン。あなたは……神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになりました(マタイの福音書16章15〜23節)。
キリストの十字架を失敗とみなす異端の発想は、まさにこのペテロの発言に通じるものです。「神のことを思わない」人間的な常識にとらわれているのです。イエスはそれを「サタン」に由来すると喝破しました。
さて、それではキリストの十字架を失敗と位置付けると、どういうことになるでしょうか? イエス・キリストは神の国を完成できなかった→だから再臨のキリストがそれを完成するために来られる必要がある(それこそが○○
先生だ)→自分たちはそのメシア○○先生の使命のために生きるのだ!→この偉大な使命のためなら大学を辞めてもいい、就職しなくてもいい、ご飯がろくに食べられなくてもいい、睡眠時間を削っても使命のために働かなければならない、使命完遂のためには嘘も知恵のうちだ……こうして立派なカルト信者の戦士に仕立て上げられていきます。これがマインドコントロール(心の操作)の中核に潜む仕掛けです。
こうしてマインドコントロールされると、イエス・キリストが成し遂げられなかった使命を○○先生が成し遂げるのだ! 自分たちはその偉大な使命に参加しているのだ! という壮大なファンタジーの世界に生きるようになります。例えば統一教会では「5パーセントの責任分担」というキャッチフレーズを使い、「神はイエス様の十字架で救いを95パーセント達成したが、残りの5パーセントは私たちが達成しなければならない」と教えます。これが、統一教会員たちを違法で過酷な活動に駆り立てる原動力です。親が心配していさめても、友達や先輩が忠告しても、「それはサタンの惑わしだ。聞いてはいけない」と心理的な縛りをかけられているので、もはや耳を貸そうとはしません。
この手口にクリスチャンも騙されます。経験則に従えば、イエス・キリストを救い主と信じてもなお罪を犯してしまう自分がいます。十字架で罪が赦されたといっても、世界にはなお罪の現実があふれています。十字架の贖いは一見、無力にも見えます。十字架の出来事を神の視点で(つまり聖書の視点で)受けとめるのでなく、人の常識で見てしまうと、教会で教えられてきた福音よりも異端が説く再臨のメシアのほうが正しいような気がしてきて心を引かれる、ということが起こり得ます。
しかし、イエス・キリストの生涯を思い起こしていただきたいのです。主イエスは何度も繰り返し十字架を避けさせる誘惑にあいましたが、それを退けて父なる神に従い通し、十字架の道を選び取りました。人間的にはどれほど惨めに見えても、それが罪人を救うただ一つの神の御心なのです。
ペテロは、イエス・キリストの名によって癒しの出来事が起きた際、イエスを例に死者の復活を宣べ伝えました。それに対し「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と大祭司の一族から尋問されました。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言います。「……この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4章10〜12節、下線は編集部)
イエス・キリストの十字架による救いを不完全であったかのようにみなす教えは、聖書の証言に反する異端です。自分の感性や心情に頼るのではなく、聖書の約束に堅く立つこと。それが、異端の手口を見分け惑わされないための、最善の備えです。