崔三卿(チェ・サムギョン)牧師コラム 「異端規定基準は教理なのか?聖書なのか?」

2005年6月1日 教会と信仰より

Q:異端と決議された団体や人々が「自分たちは聖書的に異端ではないのに教理的な理由で異端だと定められた」と主張し、「聖書を基準にして異端と規定すべきであって教理を基準に異端と規定するべきではない」という反論をたびたび耳にします。異端決議(規定)を下さす基準は聖書ですか、教理ですか。

A:異端規定で最も重要なことはその基準だと考えています。なぜなら、基準をどこに置くかによって「右側にあるものが左に、左側にあるものが右に」なることがあるからです。同じ人物を異端だと言ったり、異端ではないと言う場合がしばしばあります。もし、その判断が主観的に真実だったらその基準の違いから出た結果です。

異端規定は団体にとって(そう規定される対象)最悪の刑罰であることは確かです。もし、単なる感情論、政治的目的で異端規定をしようものならそれは神の前で大変な罪を犯すことになるでしょう。異端側より異端と定めた側がもっと問題になるでしょう。基準を誤って異端規定することは最も恐ろしいことなのです。さらに言えば、誰かを異端ということはクリスチャンにとって霊的に最も恐ろしい刑罰だからです。無条件に自分の信仰と違えば「異端だ」、私の教団の教理と違うから「異端だ」と言うことはあってはならないことです。

それでは、異端規定する基準は何でしょうか。これまで韓国のキリスト教界で一番多く議論されてきた問題は「異端規定の基準は聖書か教理か」でした。この問題は主に異端と規定された人物や団体がよく訴える主張です。韓国の教会で異端規定された「セブンスデー・アドベンチスト」(SDA)と「ウイットネス・リー」(回復教会、回復聖書)、そして金基東(キム・ギドン)がよく主張した言葉でもあります。彼らを擁護するキリスト教界の一部のメディアによってこの主張が韓国中に広がっていきました。

結論から言えば、異端規定の基準は「教理」、「聖書」が互いに異なるものではなく、同じ言葉であることに気付かなければなりません。では一つずつ説明していきましょう。

まず、異端規定の基準は教理だという意味は「異端問題の本質は教理的な問題であり倫理的な問題ではない」という考えから出たものです。つまり、教理的でなければならないという言葉の意味が「異端規定の基準は聖書ではなく教理だ」という意味です。異端か否かを分ける基準は本質的に倫理的問題から判断してはいけないということなのです。

この世界には、教理には寛大な一方で、倫理的問題に対しては厳格な人がいます。そういう人は、女性に性的暴行を加えたとか、金品を奪ったとか、家庭崩壊しているので「これは異端だ」と考えます。しかし、だからと言って、この人の「三位一体観が間違っている」「キリスト教論がおかしい」として異端だと決めつけることは間違っています。倫理的な問題は重要ですが、倫理的問題が「異端規定の本質」になってはいけません。

第二に、「異端規定の基準は教理」とする考えと「異端規定の基準は聖書でなければならない」という言葉は、狭い意味では違う言葉ですが、広い意味では同じ言葉なのです。なぜならば、すべての人は自分が聖書的だと信じているからです。自分が聖書的に正しいと信じているその基準こそがまさに教理なのです。人生観を何も持たないで生きる人がいないのと同じで、クリスチャンは教理に基づかず、その信仰生活を続ける人はいないはずです。整理された人生観ではなくても、すべての人は内在する人生観を持っています。同じように整理された教理ではないにせよ、内在する最低限の教理を持って生きているのです。

このような点で「聖書を基準にして異端規定すればよい。教理が基準になってはならない」と主張しながら、まるで自分は教理がなくても聖書的には正しく信仰生活をしていると考えている人がいたとすれば、それは大きな問題だと言わざるを得ません。そのようなことを言う人は、その人自身がまさに教理であり、聖書だということになります。私たちは皆、自分の信仰が「聖書的に正しい」と思い込まないで「教理」を信じていると考える必要があります。そうでなければ、自分が信じた「聖書的」という考えを永遠に正すことはできなくなるからです。それがまさに偶像になってしまうのです。