クリスチャントゥデイ(CT)がキリスト教界で協力者をリクルートしてきた過程でよく使ったのが「私たちは異端だと誤解され迫害されています。助けてください」というトークです。迫害されていると言われれば、クリスチャンなら同情するでしょう。しかし、これは「迫害」という言葉の定義をずらして印象操作をするトリックです。日本では2002年からオンラインメディアを開始していたCTは、2004年春に紙版の新聞を創刊しました(現在は中止)。その案内がキリスト教界の様々な団体・機関に送られてきましたが、その挨拶文の中に不可思議な一文がありました。次のくだりです。

(以下引用)

弊社は1年半にわたり、インターネット上でキリスト教関連ニュースや情報を、教団・教派、民族、世代を越えて報道しております。一般新聞の異教・異端報道による誤解や偏見によって、クリスチャンである私たちは、信仰の道の行く手を阻まれています。このような中、日本の福音化を本当に実現させるためには、国内外で福音宣教を通して成される神の御業を日本のクリスチャンが余すところなく知り、紙上で信仰をひとつにしながらクリスチャン言論を確立し、この混乱に満ちた世において唯一の真実であるキリストの福音を社会に伝えたい、と弊社は節(ママ)に願い、日々祈ってまいりました。

(引用以上)

 

この挨拶状が送られたのは2003年末のことです。韓国でキリスト教ネット新聞ニュースNジョイが、 CT創立者である張在亨(ジャン・ジェヒョン)氏がかつて統一協会の幹部であったことを報じ、それに基づき日本福音同盟(JEA)が注意喚起の内部文書を出したのは2004年5月ですから、この時点で日本ではまだCTの異端疑惑報道はありませんでした。分かっている限りオーストラリアの新聞が、ダビデ張(張在亨)氏がオーストラリアで関係している神学校と韓国に開設したその分校に関わる不可思議な動きを伝えていたのが初期のCT関連の疑惑報道です。あるいは他の国でも張氏に関する疑惑の報道があった可能性がありますが、いずれにせよ新しい新聞の創刊を告知する文章で「一般新聞の異教・異端報道による誤解や偏見によって、クリスチャンである私たちは、信仰の道の行く手を阻まれています」という文面はきわめて異例であり、違和感を禁じえません。

やがてJEAの内部文書を契機としてCTの異端疑惑が日本でも救世軍の山谷少佐(牧師)のブログやクリスチャン新聞で報じられるようになると、日本のCTは記事で、クリスチャン新聞編集長(当時)の根田祥一氏が後発メディアの躍進を妬んでCT異端疑惑をねつ造し、自分たちは迫害されているという主張を盛んに強調するようになりました。諸教会の牧師や教派の指導者、伝道団体の信徒リーダーにも接触し、同趣旨の説明をして支援を求めました。「自分たちは弱い立場にあり、いじめられているので助けてほしい」というのは、昔からある典型的な詐欺の手口の一つです。統一協会などの異端・カルトも「自分たちは迫害されている」「反牧(反対する牧師)は信教の自由を侵している」というような論法を駆使して世論を操作しようとしてきました。このようなトークが、キリスト教界では意外なことに指導者たちを騙すのに有効だったようです。

その一因は、福音宣教のために教派を超えて一致するべきなのに、あるグループの信じる教義や信仰のあり方が他教派のクリスチャンから批判されることがままあったからでしょう。例えば、異言や超自然的な奇跡を強調し肯定的に捉えるペンテコステ系の人たちが“異端視”されてきた経緯などがその例です。そのような歴史があったためペンテコステ系の一部に、CTが迫害されていると聞いて「自分たちも同じような辛いところを通ってきた」と感じ、同情する人たちが出てきました。また福音派でも、超教派の働きの責任を負ってきた指導的な牧師たちの中から、CT関係者の話を聞いて同情し協力する人たちが現れました。この人たちは従前から、教派間の小さな違いで争うのではなく福音の働きのために大同団結して協力すべきだという考えを持っていたからです。

いずれも善意によってCT迫害の物語に共感し、それを信じたわけです。クリスチャンの善意が欺きによって悪用されるのは残念です。では、上記のような「迫害」の物語を聞かされたとき、どのようにしたらその真偽を見分けることができるでしょうか。そのためには、何が信仰の「迫害」であるのか、異端やカルト団体が自己防衛の手段として主張する「信仰の自由」とはどういうものであるのかを、きちんと整理しておく必要があります。

前回のメディアリテラシー2『批判』と『誹謗中傷』を見分ける」で明らかにしたように、事実に基づいてカルト組織の虚偽や騙しを指摘することは正当な「批判」であり、「誹謗中傷」とは全く別物です。まして正当な「批判」は、人々や教会が虚偽や嘘に騙されないために必要不可決な言論活動であり、国家権力や多数派からの「迫害」とは全く無関係です。メディアによる批判報道をあたかも自分たちへの「迫害」であるかのように見せかける印象操作は、それこそまさにカルト性を証明するサインです。CTがよく使う論法に、クリスチャン新聞の編集長を「教界権力」と決めつけ、彼がJEAや日本基督教団に圧力をかけてCT批判の声明を出させた、などという苦笑するしかない荒唐無稽なフェイクニュースがあります。きちんと裏取りの確認作業を怠らなければ、このような言説が虚偽であることはすぐにわかるはずですが、残念ながら一部の教界指導者らに基本的な事実確認をするという初歩的なメディアリテラシーが欠けていたことが、問題をこれほど長引かせ混乱を招いてしまいました。

「異端」の信仰の自由

「異端」であるということと「カルト」であるということは同じではありません。「異端」は正統から外れたことを表す概念であり、学問や芸術や思想・宗教の世界で正統とされる多数派ではない学説や作品またその提唱者・作者・唱導者(組織)に対して使われます。キリスト教の歴史には最初期の頃から異端との闘いがありました。それは聖書とは異なる伝統や文化・風習・思潮からの影響が初期の教会に入り込んできたので、教会で教えられていることがイエス・キリストの教えや弟子(使徒)たちによる解釈を正しく継承しているものかどうか、福音の真理とは何か、何でないかを見きわめる必要があったからです。新約聖書の手紙で使徒パウロやヨハネが異端に気をつけるようにと警鐘を鳴らしている記事がありますが、それはそのような異端的な教えの悪影響から教会(神の民)を護る必要があったことの反映です。

教会教父の時代(主として2~5世紀)には、何がキリストの使徒たちの教えを正しく継承しているのかを巡って多くの論争があり、教会会議を重ねていくつかの信条にまとめられ、今日多くのキリスト教会で共通の信仰告白となっている使徒信条が形づくられました。その過程でアリウスやネストリウスなどの説が「異端」として退けられていきました。中世になるとローマ・カトリック(バチカン)の権威と権勢が強まり、バチカンの公式見解に異を唱える者は「異端」とされ教会から追放されるようになっていきます。教会がある人物や考えについて正統か異端かを判定したのが教会会議の異端審問や宗教裁判です。天動説が当たり前と思われていた時代に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイのように、科学的な学説について宗教裁判で審議され異端とされた例もあります。14世紀の英国の聖職者ジョン・ウィクリフは、ローマ・カトリック教会は聖書から離れていると批判して聖書を初めて英語に翻訳し、死後1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告されました。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は著書とともに燃やされて川に棄てられました。ウィクリフの立場を継承してバチカンが発行する贖宥状(俗にいう免罪符)を批判したチェコの宗教改革者ヤン・フスも、この公会議で有罪とされて教会から破門され、杭にかけられ火刑に処されました。聖書からみて教会の現状を批判し改革しようとした彼らの精神から、やがて16世紀のプロテスタント宗教改革に至りますが、改革者の多くはバチカンから異端の烙印を押されました。中には幼児洗礼を認めない徹底宗教改革を唱えたメノ・シモンズのように、プロテスタントの宗教改革者からも異端とみなされたケースもあります。

こうした教会歴史の負の面を知っている主流派の学者や教職者の中には、「異端・カルト110番」がしているような特定グループへの批判やそのグループの活動や教えの危険性を警告する記事そのものに対して、中世の異端審問と同じことをしているとみて非難する人々もいます。こういう人たちは、「異端扱いされ迫害を受けている」というCTの訴えに共感しやすいためかCTを擁護し、異端・カルトを批判する言論は無価値であり意味がないと非難する傾向が見られます。CTは批判者に対して「魔女狩り」などという言葉を使いますが、中世末期から近世に起こった魔女狩りは、ローマ・カトリック教会の絶大な権威の下で異端審問が行われたヨーロッパの空気を反映して、社会不安の中で魔術を使ったとか魔女と契約を結んでいると疑われた人々を民衆が「魔女裁判」にかけ処刑した集団リンチ(私刑)の社会現象でした。そうした歴史の悲劇の被害者に自らを重ねる論法は、事実から目を逸らさせる印象操作のテクニックにほかなりません。

現代社会に魔女狩りや異端審問のようなことがあってよいはずはありません。たとえどんなにバカバカしいことを信じていようと、その人の思想・信条・信仰の自由は保障されなければならない、というのが日本国憲法のような民主憲法の大原則だからです。すべての国民は何を信じるか、信じないかを自分で選ぶ自由があります。しかし反面、何を信じるか、信じないかを他人に強要する自由や、情報を操作して誤認させる権利は誰にもありません。もう一つ、憲法の信教の自由条項は、自分(たち)の信じていることを人に伝える宣教・伝道の自由も保障していると考えられます。しかし反面、その宣教・伝道を拒否する自由も当然のことながら保障されているのです。実態を隠したり情報の一部を操作したりして本人の選択の自由の判断力を麻痺させるのは、フェアな伝道ではありません。

「異端・カルト110番」や、統一協会摂理などからの救出・啓発に取り組んでいる牧師たちや機関は、はたして中世の異端審問や魔女狩りと同じような愚かなことをしているのでしょうか? 全く違います。どう違うのかを理解するためには、もう一つの要素である「カルト」とは何かをみる必要があります。

「カルト」の信仰の自由

前項で、すべての国民に信仰の自由が保障されていることを述べました。そこには何を信じるかを自分で選ぶことのできる自由とともに、自分の自由意思に反して誰かに何かを信じさせられない権利も含まれています。このことが「カルト」の信仰の自由を考えるときのカギとなります。もともと「カルト」という言葉自体には、危ない団体だとかおかしな組織であるというような価値判断はありません。元来は「儀礼」とか「祭祀」の意味を表す宗教用語でした。宗教に限らず「少数の熱心な信奉者」を指してこの言葉が使われることもあります(カルト・ムービーなど)。20世紀になると、宗教団体の初期形態を表す言葉として「カルト」が使われるようになり、まだ市民権を得ていない宗教団体を意味するようになります。そこから派生して、いわゆる新宗教にこの言葉が重ねられるようになり、伝統的な宗教とは違う、神秘的な教えや独裁的なカリスマ的指導者をもつ宗教集団のイメージが強くなっていきました。

今日では、否定的な意味をもたない元来の「カルト」と区別するために、「破壊的カルト」という言葉を用いることもあります。神秘性・独裁性からさらに進んで、信者から経済的に搾取したり、詐欺的な手法で資金集めをしたり、教祖や組織への絶対服従を強要したり、学業放棄を促すなど全生活を組織のために捧げることを奨励したりして、逆らえないような心理状態に誘導して支配してしまう様態が、人格破壊や人権侵害に及ぶため「破壊的」であると捉えられるからです。

問題はこのような破壊的カルトあるいはカルト的団体にも信仰の自由を認めるのか、ということです。オウム真理教の例を考えるとわかりやすいでしょう。オウム真理教は、彼らを危険視する宗教界、警察、学者、法律家、メディアなどに対して、自分たちの信教の自由を侵害するとして敵視し、自分たちは迫害されていると繰り返しアピールしました。マインドコントロールされて取り込まれてしまった息子・娘たちを取り返そうとする親たちを、オウム真理教は「信仰の自由を踏みにじるな!」と罵倒し、その親たちを支援する弁護士たちを「人権侵害だ」と非難しました。

このとき問題になるのは、組織の中にいる信者たちは自分の意思でそこに入ったとその時点では信じている(思い込んでいる)ので、自分を連れ戻そうとする親や組織を批判する社会が自分たちから信仰の自由を奪おうとする“敵”に見えているということです。組織によって意図的に事実誤認を仕組まれたそのような状態を、はたして日本国憲法が保障する「信教の自由」といえるでしょうか。これが現代の自由主義社会が規範としている「人権」でしょうか。本来の信仰の自由と、偽装された偽物とを見分ける必要があります。それを見きわめるためのバロメーターの一つが、マインドコントロールされていないかということであり、もう一つが詐欺行為や嘘、騙しがなされていないかということです。

反社会性の有無が判断基準に挙げられることもありますが、オウム真理教のポア(殺人を教義で正当化する手前勝手な理屈)、霊感商法や多額の献金強要のようなカルト組織による反社会的行為は、その背後に嘘や騙しを駆使したマインドコントロールが密接に関わっています。サリン事件という大量殺人を犯すような組織に、それでもポアを信じる自由はあるとはいえないでしょう。殺人にまで至る事件は稀だとしても、社会規範を無視してでも教祖の指示に服従することが正義だと騙されて信じ実行してしまうカルト信者の心理構造は同じです。

オウム真理教事件では、サリン事件や殺人事件の実行犯として逮捕された弟子たちが、裁判の過程でそのうち何人かは「なぜ、あのような恐ろしいことをしてしまったのか」と悔いていることが報道されました。しかし別の何人かは、最後まで麻原彰晃に「グル」として忠誠を誓い続けました。組織によるマインドコントロールが解けた人とかかったままの人の違いが如実に現れた例です。信者に霊感商法をさせる統一協会、教祖による性的搾取が行われる摂理、家賃を踏み倒したり弟子たちにカードローンを強いて献金させたりするダビデ張共同体なども、嘘をついてでも組織や教祖をあくまで擁護しようとする現役信者たちと、脱退して組織によるコントロールが解け真実を証言する元信者たちとのコントラストが鮮明である点が共通しています。

先ほどの質問に戻りましょう。

カルト的な団体にも信仰の自由はあるのか?

もちろん誰を再臨主と信じようが、それが青天白日のもとで堂々と教えられた教義であるならば、どんなに荒唐無稽であろうとそれを信じるか信じないかの自由は個々人にあります。しかし正体を隠して近づき、嘘や騙しによってその教えに誘導してよいという“自由”や“権利”は誰にもありません。その団体が、ただ主流の教えとは違うことを教える少数派であるだけなのか、それとも偽装や詐欺的な手法を駆使する「破壊的カルト」なのかは、その団体を経験した脱退者が一番よく知っています。当該の団体が主張する「信仰の自由」が正当なものなのか、それとも自分たちの不法行為をカモフラージュするためのまやかしなのか、脱退者の証言がその実態を見抜くカギを握っています。現役信者が正統的な信仰を装ってする偽証を鵜呑みにすることは、「破壊的カルト」の危険性をあまりにも軽視する無謀な行為です。

「迫害されているから助けてください」というトークに同情してしまった牧師たちは、一面で“被害者”でもあります。しかし、きちんと真偽を確かめないで言われたとおり鵜呑みにし、カルト的偽装の片棒を担ぐなどという行為は、単に「お人好し」では済まされません。指導的な立場の牧師が軽率にもそのような組織を擁護するなら、何も知らない人々が指導者を信頼してその組織に利用され、経済的、精神的、信仰的に搾取されボロボロに傷つく被害を受けたときに、どう責任を取るのでしょうか。

 

*異端・カルト110番は、キリスト教の中でその教義に議論があるだけの団体の問題ではなく、偽装・嘘・騙しなど虚偽や偽装などのカルト性を伴う団体の問題に焦点を合わせて追及しています。